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浄土真宗本願寺派正念寺は親鸞聖人を宗祖とする茨城県の寺院です。

TEL. 0294-76-2058

〒313-0123 常陸太田市久米町20-1

縁起Histry of Shonenji

正念寺の明治36年までの寺号は、願入寺と言いました。その源流は、如信上人(親鸞聖人の孫、浄土真宗第2代)の開基に因るものでした。上人のご誕生は、嘉禎元年(1235年)祖父聖人62才の時であります。 (西本願寺蔵浄喜上人像裏書による)
 上人は幼い時より祖父の膝下でその薫育を受け、成長するに従って聖人の風格がそのまま移った感じであったと言われております。
 弘安3年10月(1280年)聖人の末娘覚信尼公(聖人の御廟を守っておられ、これを留守職と言います)は、如信が法燈を継ぐべきものとして考えましたが、上人は当時常陸国に住居があり、 そのため、留守職は覚信尼の子覚恵に託しました。上人は、常陸国奥郡を主に住まわれていたと思われますが、やがて大綱の地(現福島県古殿町竹貫と言われているがはっきりとしていません) に小さな庵(奥の御坊と言われていました)を結び、父善鸞が祖父の意に反して異安心(異なる信心)をとなえ、御同朋たちの心を乱し荒らした地に、父の過ちを正し懺愧の想いを胸に、 ひたすら本願念仏のおみのりを喜び伝えられました。上人は、毎年霜月(11月)には京を訪ねる事を忘れず、御正忌の法要を勤められたと言われています。  正安元年12月京都からの帰路、金沢(現大子町)に住んでいた高足の弟子乗善房の草庵に迎えられ、朝な夕な上人を慕って集まってくる人たちにお念仏のお法を伝えておられましたが、 病に臥せられ年明けの正安2年正月4日(1300年)称名の息絶えて御往生されました。行年62才。 遺骨はこの地に葬られ、上人の13回忌と33回忌には本願寺3代覚如が来て御法要を営まれたと言われております。
 如信の子孫は奥の御坊に住まい、如信の跡は浄如がつぎ、その子空如の時に願入寺と称しました。(親鸞聖人は生涯寺を建てず、それは当時の寺が庶民と全く関係の無い、 かけ離れた存在だったからで、覚如が本願寺と公称する事にも関東の門弟の強い反対がありました。)
 その後、4代如善、5代如縁、6代純如、7代源如と継承され、8代如慶の時に国乱をさけて大根田(現常陸大宮市)に移り、 9代如賢を経て10代如了の時に菅谷村に移転(額田天神小屋に一時居たともいう)、11代如空をへて12代如正の時、 太田城主佐竹義宣の招請により久米に移り一宇を建立しました。文禄元年(1593年)のことです。
 久米の地に於いて13代如明、14代如観と継承し、15代如高の時に水戸藩主徳川光国が命じて寺基を祝町に移させられましたので、それ以降ここは久米願入寺と呼称されるようになりました。
 その後久米の地は200年の空白があって明治に至りますが、その間は輪番が寺務を執っていましたが、正式に継承者がないと自然荒廃の道をたどらざるをえないのを憂いて、 明治9年に寿命寺(現常陸大宮市野口)佐竹信行二男崇信を迎えて祝町願入寺如証長女百合と婚姻し、16代を継承し空白を埋めました。しかし明治24年一男二女を残して離婚。 その為か、祝町願入寺との間に様々な軋轢が生じ、やむなく門信徒と協議の上、東京麻布宮村町に寺号のみ残っていた本願寺派正念寺を、東京市長の認許をえて久米に移し、 久米願入寺は正念寺と公称することになりました。 時に明治36年5月14日の事でした。その後17代淳信、18代教信を経て現在にいたります。

*当時願入寺は大谷派であったが、現在は単立寺院となっている。


正念寺(麻布時代)

「正念寺」は、現在の元麻布三丁目緑地(宮村池ビオトープ)にありました。 浄土真宗本願寺派の正念寺は、築都郡勝田村(現横浜市都筑区勝田)から1752(宝暦2)年宮村町に移転してきました。 その後、1863(文久3)年に、清河八郎暗殺事件に関わりをもつこととなりました。 一の橋際で暗殺された清河八郎の同志、石坂周造が遺体から首を刎ね、 山岡鉄舟のもとに届け、密かに首を傳通院で埋葬してもらいますが、胴体は路上に打棄てられたままだったので 柳沢家により無縁者を葬る宮村町の正念寺に葬られました。これは当時の決まりで武家門前の死骸はその屋敷主が責任を持って葬るものとされていたためで、 これにより暗殺された清河八郎の胴体は正念寺に葬られたそうです。 そして、維新後に寺は現在地(常陸太田市)移転し無縁仏の所在も不明となりました。

Deep AZABU.com 「むかし、むかし.11」180 宮村町の正念寺 参照

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浄土真宗本願寺派正念寺

〒313-0123
茨城県常陸太田市久米町20-1

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